
せんでした。それだけに、我が子の障害を知ったときの驚きと悲しみは、筆舌につくすことのできないほどのショックでした。
当時、障害者といっても、今ほど情報がないので他の人のことを知ることはできません。また、いざ自分が障害児を抱えても、何をどうしてよいのか全く知識もなく、そのような人を探すこともできません。
ただ、医師に、「学齢期がきても耳が聞こえないようでしたら、その方の施設のある学校へ入れてください」と言われ、北大病院でも東大病院でも診断は同じだったので、そのときを待つしかないとばかり思っていました。
私には、恭正のほかに長女と二男がおりました。運の悪いときには重なるもので、二人の子供は健聴者でしたが、二人とも股関節脱臼でその不幸を嘆きました。
「早期治療によって一年もすれば治ります」との医師の言葉に、「せめて足だけでも治さねば、子供に罪の償いができない」との思いで病院通いが始まりました。
真っ白なギブスで下半身が固定され、身動き一つできない痛々しい我が子を抱きしめては、「ご免ね、許してね」と涙に暮れる毎日でした。
一年で治ると言われたが、症状にいろいろな悪条件が重なり長女は三年、二男は半年でしたが、恭正は五年間、ギプスのなかを出たり入ったり、家のなかを這いづり廻って、まるで地獄絵を見る思いでした。
そんな我が家を心配して、親戚の人から宗教の話を聞かされました。宗教には全く無関心な
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